
当時2月生まれの16歳には待ちきれなかった原付免許を速攻で取得!一日も早く取りたいので中型2輪免許の学科を水戸にて受験、学校の勉強は出来なくても2輪車の学科は一発合格!
降格申請をし即日原付免許ゲット!!
当時地元のオートバイ販売店に売れずに長期在庫で有ったカワサキAR50を谷本さん経由で『乗り出し135000円なら買う!』と何故か上から目線・・・今のご時世ではありえない価格にて購入しました!
当時ヤマハRZ50も有りましたが余りこだわってなかったようです
もちろん最初は完全ノーマル!

『スーパーモンキー』と言うメーカでAR50とAR80が何故か共通だったチャンバーを装着!
当時筑波山に来ていたARでは結構装着率が高かった記憶が有ります
筑波山へ通い始め当初は高校通学前に『朝練』で筑波山をひとっ走りしていました・・・
それなりに自信がついてから土曜日&日曜日の昼間に筑波フルーツラインデビュー!!
高校1年から2年の部活動は『筑波山峠部』・・・・

今と違いネットで検索&ポチれば購入と言う時代では無い&実家が木材関連の家業の為シングルシートはベニヤ板・・・
プレスで圧縮接着しとの粉を塗り塗装は缶スプレー

AR50はタンクがゴム止めな為、コケるとタンクが吹っ飛びベニヤ板が散乱するという
タイヤはTT100GP一択の時代でしたね

この当時はまだカワサキパーツの入荷が非常遅く部品待ちのたびに全塗装をしていました。
ポート加工→焼き付き→オーバーサイズピストン→ポート加工の繰り返しでかなりの数のシリンダを購入した記憶が・・・
当時適当な加工の為パワーバンドは500回転程・・・
絶妙な半クラ&アクセルワークはこの当時に勉強したかも
当時50ccの排気量ながらメーター読み〇20キロ位は出ていました
筑波山の登りでAR80は抜いていたので知らない方は80ccだと思っていたと後々聞いています

フルーツライン全盛期頃のワンショット!
調子こいていたので下りなら誰にも負ける気がしなかった頃・・・・
(実際には2~3台には勝てませんでしたが・・)
速そうな50cc~大型バイクを見つけては抜くたびに快感を得ていたような
その後中型2輪免許を取得し『峠の走り屋』に限界を感じ主戦場を筑波サーキットへ!
たまに筑波山も車で通過しますが『よくここを走っていたな…死ななくて良かった』としか思えない
若気の至り&時効と言う事で危険走行画像はお許しください・・・



画像は高校3年頃、石島&泉と出場した筑波選手権!
1984年の2&4第2戦、4月21日でした、友達3人でスペシャル50ccクラスに参加した時の画像!
それまでの練習タイムの場合予選は余裕で通過確実でしたが前日の筑波山練習でまた『エンジン焼き付き』もちろん当時カワサキ部品の入荷には時間が掛かりましたので焼き付いたガリガリシリンダをサンドペーパーで修正&ピストンリングも1本での強行出場・・・しかし屈辱の予選落ち
石島は見事に予選通過で本戦出場でした
で翌日の学校で言われたのが『宮本!石島に負けたんだって!!』ここから火が付いたかも

スポーツショップ フクシマのRZ250R!
私の兄が乗っていました
見た目ノーマルですが全日本でもポールを取ったことも有るマシンです。

RG250γ1型のノーマル時代です
確か当時の筑波サーキットでのタイムは1分8秒ぐらいかな、今と違い旧コースですが参加していたプロダクションレースのトップが1分6秒ぐらいと記憶しています、予選通過は1分8秒ぐらいでしたね

その後『城北ムラカミ』製チャンバーを装着!
当時はバイク部品は東京上野のバイク街へ買いに行くのが普通でした
〇〇モータースの店員さんに『今、筑波サーキットではムラカミが多いよ!』と言う言葉を真に受け購入・・・
ほとんど居ないじゃん!SRSスガヤばかりでした

1985年頃の筑波選手権!
画面中央ゼッケン23番のガンマが宮本です
第何戦かは不明ですが予選は23番手だったようですね
当時大人気なクラスでしたので予選16組、参加台数500台なんて普通でしたね
予選トップから決勝に進める32番手までのタイム差は凡そ1.5秒ほど
1985年からは筑波選手権のニュープロダクションにフル参戦しましたがレース人生での予選落ちはAR50で参加した初戦のみでした
タイヤウォーマーもない時代、コースインから3周目にはベストラップを出せるように走行枠を区切っていましたので予選3周目にこけたレースも予選は通過していました
レース全盛期の時代に予選落ちの経験が無い人は超珍しいと思います

当時はレース仲間が沢山いましたのでとても助かりました。
ボード、タイム計測、雑用etc…などやることは沢山あったので非常に感謝感謝です
1985年頃のニュープロダクションⅠクラスには町井邦夫選手(のちにヤマハ)、鈴木淳選手、岡田忠之選手(のちにHRC)、高吉克郎選手(のちにヨシムラ)などその後有名になった方たちと同じレースに参加していました、当時は皆さん1分7~8秒ぐらいでした

車両もヤマハTZR250R(1KT)になり千葉県のスポーツショップフクシマさんからスポンサーを受け『チームSSフクシマレーシング』の看板を背負ってフルサポート体制に!
SSフクシマは後のドックファイトレーシングの前身と言う感じかな
当時ヤマハはTZR250RやFZ250フェザーをデビューレースで優勝させるため有力ヤマハ系ショップであるSP忠男、イシイ、フクシマ…発売前に慣らししてましたので・・・
レースでの順位で販売台数やチャンバー&マフラーの売り上げが大きく変わった時代ですね
肝心のTZR250Rデビューレースは予選が5番手ぐらいからスタートしトップの町井邦夫選手と絡んで2位を走行中早々に転倒・・・・SP忠男TZRはストレートが異常に速かったな・・・



1986年頃のSPⅡレースです
予選3週目にこけて28番グリッドからのスタート!必死に追い上げましたが5位か6位ぐらいで終了してしまいました・・・
予選が28番なのに『めざせチャンプ宮本誠』はとても恥ずかしかった記憶が有ります。
後にHRCの岡田忠之さん、水海道市出身でこの頃は筑波サーキット職員でした・・・
と言うか筑波サーキットのレースで上位は筑波サーキットの職員だらけでした

多分兄のピットクルーで鈴鹿サーキットの全日本ロードレース参戦の時かな
高速も繋がっていなくナビもない時代でしたので遠い遠い・・・・
緑のキャラバン?ハイエース??が昭和な時代を感じるな

スポーツランド菅生に遠征した時の画像です
ライセンスも無く、公式練習も霧の為中止、初めての菅生が予選と言うハードスケジュール
この頃は余り各ショップとも菅生選手権を重視してなくSP忠男&イシイも不参加
初めて走るコースでファイナルも合っていませんが辛うじて予選3位!
結果報告すると大激怒・・・当時は負けても良いのは忠男とイシイだけ、、、なので今回予選トップ以外はありえない感じ
優勝すれば一件落着でしたがスタートからトップを走行していましたが合わないギア比も有りまたシケインで転倒・・・自力で再スタートし感覚的には『ごぼう抜きしトップ』でしたので『優勝じゃね?モトチャンプの表紙じゃね?』なんて考えていたらセカンドグループのトップ(6位)でした・・・
しかも転倒時にステップが足に刺さり4針も帰りの道中激痛に耐えながらの帰宅でした
この時のサポートは大久保さんと進藤さん?感謝です!

昔乗っていたキャラバン!
スピードメーターの針は水平に移動してたな・・・・
激安で購入しましたが筑波、鈴鹿、菅生とよく壊れなかったな・・



この頃は基本サーキット通いの日々でしたのでバイク屋の給料は7万とか・・・
ですがノービスのくせに日給月給でスポンサー様からお小遣いを頂いておりました
日給、レース費用、食事費用、遠征費用等全て頂いていたので恵まれていましたね
私のマジ(本気)レース最後は筑波サーキットでした
フクシマの常連さんがカメラマンとして同行する事が多く2ヘアピンで撮影していたのでシャッターチャンスを提供してしまいました・・・
予選ポールがSP忠男の福智選手、2位がイシイの生見選手、3位が宮本でした、オープニングラップは宮本がトップで走行、福智選手と生見選手が絡んでこけていたので『あれ?このままいけば俺ランキングトップじゃね??』なんて考えていたらまた転倒・・・
引き起こし再スタートを試みましたが無理な感じでした


と言う訳で何故か転倒シーンばかりですが、いつもコケていた訳ではありませんよ!
このレース後、色々と考える事が有りシーズン途中でレースは終了、今思うとスポンサー様には大変申し訳ないことをしました、性格的にダラダラとレースをする事が出来なく『死ぬ気で参加』していましたので『2輪のレースでは食えない(仕事として成立しない)』と考えた時に急速に熱が冷めた気がします
その後、年収1億円を目指しオートレースの養成学校に向かうも視力で資格なしと、当時裸眼で0.7以上でしたね、PCが普及する前でレーシックの存在や検索もない時代でしたので・・・気が付けばバイク関連以外の能力ゼロに気が付き・・・
なのでバイク屋に
