画像は高校3年の時に友人達と出場した筑波選手権! 84年の2&4第2戦、4月の21日でした友達と三人で出場しました。 それまでの練習タイムだと予選は余裕で通過確実だったが前の日に筑波山で練習中にまた焼きつき! 当時のカワサキ車両の部品がすぐ手配きるわけも無く1本リングとガリガリのピストンで出場し屈辱の予選落ち!でも友達の1人は予選通過した。 でもって次の日高校で『宮本!○○に負けたんだって』この一言が僕の人生を変えた!!! |
|
スポーツショップ フクシマのRZ250R! 私の兄が乗っていた。 こう見えても全日本でポールポジションも取ったことのあるマシンですね。 |
|
画像はRG250γ1型のノーマル時代です。 確かこの頃の筑波のタイムは1分8秒ぐらい、昔の旧コースで当時トップが1分6秒中盤で、予選通過のボーダーラインが1分8秒台ぐらいだったと思います。 |
|
その後、城北ムラカミ製のチャンバー装着! この当時、まだ高校生でチャンバーを買いに友人と東京上野バイク街まで電車で行き、当時は有名な『○○モータース』の店員が『今筑波はムラカミが多いんだよ』と熱弁していたのを素直な私は『あっそうなんですか!』と納得し購入! いざ筑波に走りにいったらほとんど見当たらなかった。 うそつき! |
|
85年頃の筑波選手権! 画面中央が宮本です。 第何戦か不明ですがゼッケン23なので予選は23番手のようです。 γ1型時代は大体20番台で予選を通過していました。 今と違い1980年台中盤はレース関連がピークでしたのでプロダクションクラスは大体500台以上のエントリーが有りました。 1秒半ぐらいの中に32台がひしめき合う超激戦だった。 1985年からは筑波選手権シリーズフル参戦しましたが予選落ちはレース人生を通してAR50で出場したレースだけ! 普段から30分の練習走行を区切り常に2週目にはベストラップを出せる為の練習をしていましたので 予選3週目にコケても予選は通った、これは結構すごいことなんです!当時では |
|
当時はレース仲間が結構いたのでとても助かりました。 ボード、タイム計測、雑用etc...などやる事はたくさんあったので感謝感謝! この当時の選手に 町井邦夫(後にヤマハ)選手、鈴木淳選手、岡田忠之(後にHRC)選手、高吉克朗選手(後にヨシムラ)今も一緒にツーリングに行く草間さん等そうそうたるメンバーがいた |
|
この時から『SSフクシマ』さんからフルサポート 左画像はTZR250のデビューレース! このレースからスポンサードをうけるようになり『スポーツショップフクシマレーシング』のマシンに乗せて頂く事になりました。 残念ながらフクシマさんは閉店したらしいけど、、、。 現在も活動しています『ドックファイトレーシング』の前身ですね! このレースは確か予選が5番手ぐらいで決勝はトップの町井邦夫選手のあと(2番手)を走っていてコケた!、、、と思います。 ヤマハは当時1KTのTZRをデビューレースで何とか『ポールtoウィン』させたかったらしく、イシイ、忠男、フクシマと当時のヤマハ系有力ショップに発売前に車輌を渡していたような、、、。 私も発売前にはTZR250やFZ250フェザーをレースで使用するために慣らしをやっていた記憶が、、、。 当時はそれ程プロダクションレースでの結果が車両販売やマフラーの販売本数に影響を与えていたんでしょうね |
|
86年ぐらいのSPUの頃だと思う! また予選の3週目にこけて予選が28番手でした。決勝は結局5位か6位ぐらいだったと思う、予選が28番手だったのに『めざせチャンプ!』の垂れ幕はかなり恥ずかしかった記憶があります! 当時予選は2週目にベストラップが出せるように練習していたので3週目にこけても何とか決勝は走れた。 左画像のPIT CREWのゼッケンをしている人は岡田君(HRC監督)です。 彼は私と同い年で茨城県水海道市出身で、当時付筑波サーキットで仕事をしてた、もちろんノービスで無名だったけどね! |
|
このショットは多分、ピットクルーとして兄の全日本ロードレースで鈴鹿サーキットまで行った時の物だと思う!鈴鹿も、何度か行ったけど茨城からだと遠い | |
ここはどこだろう??? 多分、スポーツランド菅生でしょう!菅生の初レースの時は、霧で練習走行が出来なくて結果生まれて初めての走行が菅生選手権の予選だった。 このレースの時、イシイ(現OXレーシング)もSP忠男もエントリーがなく何とか予選を3位で通過!電話にて結果を伝えたらフクシマの社長さんは激怒! 理由は『何でイシイ、忠男がいないのに3位なんだ!!』そんなこといわれてもね、、、。 結局スタートしてずっとトップを走行していたがファイナル(ギア比)が合わずに苦労して、シケインでこけてしまった。 その後、何とか走り始める事ができ、自分的には転倒した時に抜かれた人を全員抜き返したと思い込んでいたので、すっかりとお立ち台でのヒーローインタビューでなにを話そうかとか『モトチャンプの雑誌に大きく取り上げられるぞー、やった!』なんて考えながら走っていたら6位だった、、、要するに『5位が見えないほど離れていたのね!』 しかも転倒時にステップが足に刺さり4針も縫うほどの怪我をしており菅生の帰りは死ぬほど痛くて、わめきながら帰って記憶がありますね。 で次の日、地元の大きな総合病院で私が治療中に死ぬほど痛がっている横で何故か看護婦がダンスのステップを練習してた! その光景を見たときには殴りたかったな |
|
非常に懐かしいキャラバン! 年式は記憶に無いが大型トラックのスリップストリームに入ると最高速は140キロぐらい出た! スピードメーターの針は地面に対して水平(横に)に動いていましたよ! 今考えるとシブー! 筑波、鈴鹿、菅生と行きましたがよく壊れなかったな、、、。 |
|
私のレース人生最後のレース(筑波)です! またこけた! 専属のカメラマンが2ヘアピンにいらっしゃいましたので目も前でコケてあげました(笑) おかげで決定的証拠写真を取られてしまいました! このレースは、予選ポールが忠男、2位イシイの次の予選3位でスタート! 実はここまでのトータルポイントでも僅差で3位でした。 レースはスタートして、いつものように1週目の1コーナーをトップで通過(押しがけが得意でしたので)したのですが、多分1週目にイシイ(生見選手)と忠男(フクチ君)が絡んで転倒してしまい、それをブッチギリでトップ走行していた僕が不運にも知ってしまいました。 脳裏に『もう敵はいない!お立ち台もランキングも頂きだぜ!』なんてニコニコしながら走っていたらお約束! 起こして走ろうとしましたが駄目でした。 |
|
と言う訳でなぜか転倒のシーンばかりですが、いつもコケていた訳じゃありませんよ!
私は色々と考える事がありシーズン途中でレースを辞めてしまいましたけどね。
理由は自分を取り巻く環境を変えたかった事と将来への不安??かな、、
オートレースに行きたかったが視力の問題で却下、気が付くとバイク屋、、、。
約4年と短期間なレース生活でしたがとても充実した内容だったと思います。
性格上ダラダラやるのは合わないんですね、全身全霊をかけ死ぬ気でやらないと気がすまない性格でした
最近はあまりレースをする人がいないのでちょっと寂しいですね!